大阪地方裁判所 平成元年(ヨ)1520号 決定 1989年8月04日
申請人
坂本勉
被申請人
株式会社髙島屋工作所
右代表者代表取締役
松村文夫
右代理人弁護士
木崎良平
同
中山晴久
同
夏住要一郎
主文
一 申請人の本件仮処分申請を却下する。
二 申請費用は申請人の負担とする。
理由
一 申請の趣旨
申請人は、「申請人は被申請人が平成元年四月五日付で発した被申請人会社家具販売事業部大阪販売部統括課勤務を命ずる旨の配転命令に従う労働契約上の義務を負わないことを仮に定める。申請費用は被申請人の負担とする。」との裁判を求めた。
二 当事者間に争いのない事実
被申請人は建築造作及び家具の製造販売を目的とし従業員約五五〇名を使用する株式会社であること、申請人は昭和四八年一一月一日被申請人と労働契約を締結し以来主として被申請人本社企画部の従業員として開発企画の業務に従事してきたものであるが、現在右眼偽黄斑円孔(その症状は読もうとする文字の右半分が欠けてしまうというもの)に罹患し治療を継続中であること、被申請人は平成元年四月五日申請人に対し家具販売事業部大阪販売部統括課(以下単に「統括課」という。)勤務を命ずる旨の配転命令(この配転命令を以下「本件配転」という。)を発したこと、本件配転は、申請人自身が本社企画部からの転出を願い出たことに基づき、被申請人が配転先を提示し、これに対する申請人の同意を得たうえで行われたものであること、以上の各事実はいずれも当事者間に争いがない。
三 被保全権利に対する判断
争点は、本件配転が有効であるか無効であるか、という点にある。
申請人は種々の理由を挙げ本件配転は無効であると主張するが、本件配転に関しては、使用者である被申請人が一方的に命令したわけではなく、申請人の側から配転を願い出たものであり、かつ、配転先につきあらかじめ申請人の同意(この同意を以下「本件同意」という。)を得たとの事情が存する(前記のとおり、このことは当事者間に争いがない。)のであるから、本件同意が瑕疵なくなされたものである限り、使用者による一方的な配転命令の場合とは異なり、権利濫用や信義則違反、またその考慮要素としての業務上の必要性及び人選の合理性などが問題となる余地はそもそもない。したがって、申請人の主張論拠のうち本件同意の無効・取消しを前提としないものはいずれも主張自体失当であるといわなければならない。
そこで、本件同意に何らかの瑕疵があったか否かにつき検討するに、当事者間に争いのない事実、疎明資料、審尋の結果及び手続の全趣旨を総合すると、以下の事実を一応認めることができ、これを覆すに足りる疎明資料はない。
1 申請人は昭和六三年五月ころ右目に偽黄斑円孔が発病し、以来月に二、三度通院して治療を継続している。右疾患の発生原因については種々考えられるものの未だ医学的に確定したものはなく、また何が病状の進行を促進するかという点についても未解明で、現時点では、治療法がなく、不治であり、放置していても病状は少しずつ進行するであろうことが判明しているにすぎない。そのため、申請人は細かい文字の判読ができず、医師からは、ワープロ操作や細かな文字を読むなど目に負担を覚える作業、激しい運動及び力仕事等を避けるようにとの指示を受けている。そこで、申請人の上司も、申請人の右疾患に対しては、これを悪化させないよう業務遂行面において十分な配慮を示してきた。
2 申請人は、前示1の疾患につき労災保険給付の請求をしたが、労働基準監督署長により不支給の決定を受け、現在不服申立中である。さらに、申請人は、被申請人が申請人に業務を与えないために精神的ストレスを生じ、また過度のワープロ操作を行ったために偽黄斑円孔症が発病したとして、被申請人を相手取り、金二七〇万円の支払及び陳謝を求める調停を大阪簡易裁判所に提起したことがあり、これに対し、被申請人は、申請人の主張は争うものの、申請人に疾患があり回復不可能とされている事実のみは認められたので、これを見舞う趣旨で金二五万円を支払うこととして、平成元年一月一九日に右調停を成立させた。なお、被申請人は、右調停の機会に、右疾患が業務に起因するという申請人の気持ちをくみ、申請人の不安ができるだけ少ない部署に配転したいと考え、この点についても話し合うよう希望したが、申請人が拒否したので実現しなかった。
3 申請人は、平成元年二月ころ、被申請人本社企画部に所属して、研究、企画、提案等の業務を担当し、各種メディアからの情報の収集その他の作業に従事していたが、同月末に企画部部長が交代し、新しく就任した部長により、過去の業務の遂行状況と今後行うべき業務の内容を具体的に報告せよと命ぜられるなどしたことから、同年三月二三日、同部長に対し、企画部での業務に自信を失ったので他の職場へ配転して欲しいとの旨申し出るに至った。その際、申請人は、希望する配転先として、本社経理部あるいは監査役室を挙げたが、被申請人は、前者については申請人が従事したいとする業務が被申請人の営業方針と合わず、後者については人員を要しない状況であったため、右要望を拒否し、代わりに被申請人の側で若干の検討を加えた結果、統括課であれば従来の企画部での業務経験が商品管理システムの改善等に生かせるであろうとして、その旨申請人に提案した。申請人は、右提案に対する回答を保留し、結論を出すまで数日の猶予を求めるとともに、統括課の業務内容を知るため同課所属の知人に相談したいとの旨申し入れたが、被申請人は、後者については人事にかかわる事柄で秘密を要するとの理由から口外を禁じ、相談相手としては人事担当課長が適任であると指示した。
4 その後、申請人は、翌二四日人事担当課長と面談し、同月二七日、被申請人に対し統括課への配転を承諾する旨の意思表示をした。配転の発令日は、人事異動との関係で少し遅れ、四月五日とされたが、その前の同月三日、申請人の希望により、企画部部長の立会いの下に、統括課課長との間で配転後の担当職務につき協議する場が設けられた。この場において、申請人は、統括課課長の質問に対し同課への配転を希望する旨明確に答えたうえ、同課長から、同課の業務内容につき、電話受注の受付を含めた受注票の取りまとめ処理、売上計上のための受領書及び仕入票の取りまとめ処理、商品在庫の把握整理、商品発注業務等の各種日常業務を統括している部門であり、そのほかスタッフ業務として家具販売事業部の将来目標の策定から日常業務処理の改善立案などを行っていると、具体的に説明を受け、同課における担当業務について、目に疾患があるためパソコンの使用、力仕事及び残業はできないが、それ以外は他の従業員と同様に扱ってもらってよく、伝票整理などの日常的な定例業務もやってみたいとの旨述べた。
5 このようにして、本件配転は四月四日申請人に内示され、翌五日に発令された。同月六日以降統括課において申請人が担当した業務は、大別すると、<1>顧客管理システムの検討立案、売上票や注文書の様式の変更の検討、コンピューター端末機導入受入れの準備作業などの企画検討立案業務、及び、<2>配送伝票等の帳票に基づく配送日計表の作成や請求書作成等の事務業務であるが、同課課長は、申請人に対し、その希望どおり、VDT画面を見る作業や力仕事及び残業を命ずることはせず、疲れたら随時目を休めるよう指示するなどして、申請人の目の疾患に対する配慮を怠らなかったばかりか、同月二七日以降は、申請人からの申し出に従い、目に悪影響を与えることを避けるため、右<2>の業務の担当を免除している。
6 申請人は、四月二五日になって、被申請人人事担当部長に対し、企画部へ再配転して欲しいと申し入れたが、被申請人は、本件配転後申請人をして特段目の疾患を悪化させるような業務に就かせたことはなく、また、いったん発令した配転を正当な理由もなく取り消したり再配転したりすることは他の人事に重大な悪影響を及ぼすことになると判断したので、五月一一日、申請人に対し、右申入れには応じられない旨返答した。なお、同日ころ、統括課課長は、申請人に対し、いかなる業務が申請人の目に悪影響を与え、いかなる業務なら目に影響がないのかを明らかにするよう求めたが、申請人からの回答はついに得られなかった。
右一応認める事実によれば、申請人はその自由かつ瑕疵のない意思により本件同意をしたものと推認することができる。すなわち、申請人は、三月二三日に自ら企画部からの転出を願い出、被申請人より配転先の提示を受けた後、同月二七日に承諾の意思を表示しているのであるが、それまでの間、被申請人の提案に応ずるか否かを考慮する時間及び配転先の業務内容につき検討する機会を十分に与えられていたものであり、また、承諾の意思表示の後四月五日に本件配転が発令されるまでの間も、統括課課長との協議の場や四月四日の内示など、先にした承諾につき再考しこれを翻意するのに十分な時間と機会とを有していたものであるところ、申請人は目に疾患を有するため申請人にとって遂行可能な業務は当然限定されるのであるから、被申請人相手に民事調停を提起した申請人の従前の態度からしても、申請人において被申請人の提示した配転先に異議を唱えたりあるいはこれを拒否したりするのに何ら障害はなく、躊躇を覚える理由はなかったはずであるし、一方、被申請人は、本件配転の前後を通じ、申請人の目の疾患につき可能な限りの配慮をするとの態度を一貫させており、申請人が本件同意の意思を形成する過程において、被申請人が申請人に対し何らかの強制や欺罔その他の不当な働き掛けをしたとの形跡は全く窺えないからである。
ちなみに、申請人は、本件同意をするにあたり配転先の業務内容について被申請人から十分な情報の提供を受けなかったとの旨主張するが、前示認定のとおり、申請人は本件配転前に人事担当課長との面談や統括課課長との協議の場など被申請人の責任ある立場の者から配転先の業務内容につき知識を得る機会を付与されていたのであり、現に統括課課長からは具体的に説明を受けさえしたのであるから、たとえ右の機会を利用しようとせずあるいはこれを生かすことができなかったとしても、その不利益は申請人が負うべきであり、右主張は到底採用できない。
また、申請人は、企画部に比べ統括課の業務内容の方が目にかかる負担が軽いとの説明を受けたが、本件配転後右目の矯正視力が急速に低下したことからも明らかなように、真実は逆で、統括課の業務内容の方が目の負担を増加させるものであったとして、本件同意は要素に錯誤があるから無効であるか、被申請人の詐欺によるものであるから取消しを免れないとの旨主張し、なるほど、(疎明略)によると、申請人の右目の矯正視力は、昭和六三年一一月一四日に〇・九、平成元年三月三〇日には一・〇であったものが、同年五月九日には〇・三、同年六月六日には〇・四と低下していることを一応認めることができる。しかしながら、前示認定のとおり、申請人は統括課において目の疾患を悪化させることのないよう十分な配慮を与えられていたものであるうえ、申請人の病状が進行する原因は未だ医学的に解明されておらず、かつ、右病状は放置していても少しずつ進行するというのであるから、視力低下の事実があるというだけで、直ちにそれが統括課における業務従事に起因すると結論づけることはできず、まして、統括課の業務内容の方が企画部のそれより目に与える負担が大きいなどと推認することは到底できない。そして、他に真実は企画部に比べ統括課の業務内容の方が目にかかる負担が大きいと一応認めるに足りる疎明資料もないから、申請人の右主張は理由がない。
さらに、申請人は、統括課において申請人が従事するのに適切な実体としての業務が存在するとの説明を受けたが、真実はそのような業務はほとんど存在しないとして、右同様本件同意の錯誤無効又は詐欺取消しの主張をしているが、統括課における業務の概要及び同課において申請人が現に担当した業務の内容は前示4、5に認定したとおりであり、また、(疎明略)によれば、統括課課長は、同課において現に申請人が担当しているコンピューター端末機導入に伴う業務のほか、申請人に担当させるべく、情報の収集と営業部門への情報の提供、諸種の事務処理の改善方法の立案、各種会議資料の作成、顧客管理システム案の検討、請求書の作成等の事務を用意しているとの事実を一応認めることができ、これを覆すに足りる疎明資料はないところ、右事務が申請人の担当事務として不適切であるとか空疎であるとかいう申請人の意見には何ら合理的な根拠を見いだせず、そうすると、統括課において申請人のために適当な業務が存在しないとは認めることができないから、申請人の右主張も理由がない。
以上のとおりであるから、本件配転が無効であるとする申請人の主張はすべて理由がなく、申請人の本件仮処分申請は被保全権利の疎明がないことに帰着するといわなければならない。
四 結論
そこで、申請人の本件仮処分申請は、被保全権利の疎明がなく保証を立てさせてその疎明に変えることも相当でないと判断するので、これを却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判官 石田裕一)